後藤繁雄

白と黒で
後藤繁雄

 フラグメンツとタペストリー。この『白と黒で』と名づけられた向井山朋子の、いや向井山朋子と彼女の夫であり、しかし今はなき写真家フィリップ・メカニカスとのコラボレーション作品を「私」は今、「経験」しようとする。それは、単に誰かが作曲した「曲」を聴くということでも、写真家が撮った裸体やレースのカーテンや市場でバケツの中にとじこめられたアヒルの写真を眺めるということでもない。
 『白と黒で』というタイトルから、多くの人はモノクロ写真やピアノの鍵盤、あるいは、ドビュッシーのことを連想しがちだが、ここで起こっていること/起きようとしていることは、白や黒で分けられはしない、もっと複雑だ。いや複雑というコトバより、もっと正確なのは、「穏やかではない」というコトバだと思う。私は今まで、向井山朋子のCDや演奏会で、いつもこの感情が体の中からわきおこるのを愉しみにしてきた。「穏やかではない」が故に、愛してきたのだ。もちろん彼女は、さまざまな意味において卓越したピアニストであり、この「アルバム」においても、バッハなどのバロックから現代音楽作家まで、弾きこんでいる。しかし、重要なのはもちろんそんなことではない。
 コラージュのためのタペストリー化でもなく、死者をともなうための無数のコトバの破片でもないとするならば、では何なのか。入り交じり。生と死の入り交じり、だからこそ、穏やかではないと言うのである。

 このCDブックを作る一年ほど前、私は向井山朋子から一通の手紙をうけとった。そこにはこうあった。
 「美しい関係が、残酷な不意打ちで壊されたとしても、それは単に、関係のかたちが変わっただけだ。もちろんいつだって、現象は過酷で、この瞬間にはこんな薄っぺらいコトバが心に響くはずもない。でもあなたたちは、白と黒を紡ぐ/白と黒で紡ぐ。夢のような道具を通して、情動という厄介な怪物を手なずける術を知っていたし、どれほどつらくても、あなたがそれを忘れることはないだろう……」
 この文章は、2005年の夏、フィリップ・メカニカスが死去した時、友人が彼女にくれた手紙であった。愛する人の死、かけがえのないものの喪失。しかし、そこからの発端。このアルバム『白と黒で』は、穏やかではない企ての作品なのだ。
 ピアニストは「私はどこにいるの」ということと闘い続ける宿命を背負った仕事だと思う。曲は他者のもので、なおかつ自分の弾いた曲は、どれほど他者の身体との交わりをはたしているのだろう。解けることのない問い。向井山朋子は、たった一人の聴衆のためのコンサートや、逆に自動演奏のインスタレイションも行なってきたが、そこには終わることなき生々しさへの希求が感じられる。それを手紙の主のように「情動」と単純に言ってもよいけれど、私にはためらわれる。濃密な愛と言った方がいいだろう。ページを繰ってみればわかる。向井山朋子が、まず選んだ写真は、フィリップが撮った彼女自身がピアノを弾く姿と、そして未発表の裸体の写真だ。裸体の向井山は写真家を挑発し、しかし、それは2人の愛の悦びのあかしであり、その愛の力が生む空間の変形は、今も生々しくプリントに保存されている。なんと素敵なことだろう。

 ある日、向井山朋子から一冊の写真集が送られてきた。それは写真家フィリップ・メカニカスの死後の回顧展にあわせて出版されたモノトーンの写真集だった。私はそのページをひらいたとたん、それらの静謐なポートレイト写真が、いっぺんに好きになった。よけいなことを一切せず、自然光の中で、そのもの自体の本質が静かに、そして穏やかに浮かび上がることを知る写真。私はその写真を見て、向井山朋子とフィリップ・メカニカスの共作に加担することを決心した。私もまた入り交じるのだ。
 向井山朋子は、「アーティストが最初から最後までこだわる問題は、生と死。なぜなら、それは人間全員に平等に与えられたテーマだから」と言ったことがある。演奏家は、何百年も前に書かれた楽譜を、「いま・ここ」のものとしてよみがえらせる仕事だから、向井山朋子にとって、死は我々が思うものよりもっと絶対的なものではないのかもしれない。誤解されるおそれもあるので書くのがむずかしいが、癌で2年間、闘病し続けたフィリップが逝く時、向井山朋子は立ち会うことができなかった。発病後、彼らは、事態が絶望的であるにもかかわらず、家を改造したり、帰還後の生活を話し合っていた。死ぬなんて、まるで考えなかったという。「私たちの約束は、自分たちの仕事を優先するってことだった」。向井山朋子はコンサートツアーでぎゅうぎゅうのスケジュールの中で、身動きがとれず、ツアー最終日をまたずフィリップは死ぬ。「誰にも言えなかった。でも演奏が始まると、すっごくよく弾けるのね。かわいくないの、私って」そう言って、向井山朋子は微笑んだ。
 それから向井山朋子と私は2人で、フィリップがしてくれた子どもの時にはいていた海水パンツの話や、スイスにあるグリューネルバルトの絵と「生々しさ」のことやら、時の経つのもわすれて話をした。そして最後に、「穏やかさみたいなものを、少し手に入れたいな」と彼女は言った。しかし、いろいろな季節がくるのだろう。

 アートは生や死を超えることができるんだな。そう思い、フィリップが撮った、この本のジャケットになった、闇の中からつき出た、白い腕と指の写真をずっと見ている。